《キヤノンBJを最初から手がけ、年間売り上げ4000億円以上の事業に育てた功労者》
元キヤノン株式会社インクジェット事業部長、 ザール・ピーエルシー日本事務所代表 太田 徳也

小藤さんが、リーダーとしてエプソンでインクジェットの開発を始めたのは1978年ということです。
実は、私がキヤノンでインクジェットの開発に参加したのも1978年1月5日のことです。それ以来、お互い長い間インクジェットに携わってきたわけです。
ちょうど前年(1977年)にキヤノンでBJ(バブルジェット)の発明が出願され、権利化されましたが、この1978年、インクジェット開発を始めてすぐの小藤さんたちのチームからマルチノズルBJの特許が出願され権利化されています。ただ小藤さんたちのチームはBJには進まず、圧電インクジェットの開発を続けます。
キヤノンがBJを商品化するまでに、大きな問題が3つありました。ヒータ材の耐久性、生成したバブル(泡)が消滅するときに生ずるヒータ面の亀裂、それにインクコゲつき現象です。われわれキヤノン技術者がこれらと戦い1985年にようやく商品化したのがBJ-80でした。ただ電子写真の連中からは「文字がにじむ」などと言われ、期待したほどの売り上げにはなりませんでした。
一方エプソンはこれらの問題はなかった代わりに、 ヘッド中の気泡によってすぐに不吐出になる耐気泡性、BJに比べ不利な高集積化、高製造コストと戦っていたそうです。
このころはシャープ、日立、IBM、リコー、カシオ、コニカ、シーメンス、松下、東芝、三洋、HP、NTT、Olivetti、沖など、キヤノン、エプソン以外にも多くの有力メーカーがインクジェットの開発商品化を行っていましたが、事業として成功しているところは1社もありませんでした。その最大の理由は信頼性が低かったことにあるといえるでしょう。
1986年小藤さんたちのチームがエプソンHG-2500を商品化しました。このプリンタは従来に比べ、十分な信頼性の確保と、普通紙ににじまずに印字できる特殊インクが特徴で、今までのインクジェットにない市場への広がりをしました。後で聞くと十分な利益を上げ、エプソン国内プリンタ事業へ大きな貢献をしたようです。
キヤノン内で「電子写真派」にくらべ、まだ認知されていなかった「インクジェット派」としては、敵ではあってもインクジェット市場を形成していく相手にエールを送りたい気持ちでした。
ちょうどこのころOEMがらみで小藤さんと初めて諏訪で会いました。1987年3月18日のことですから、小藤さんとはそれ以来20年以上の付き合いになります。
1990年にわれわれキヤノンはデスポーザブルヘッドによってヘッド耐久性の問題をクリアし、低価格を武器にBJ-10Vを商品化しました。これは爆発的に売れ、年間100万台以上のヒット商品となり、インクジェット市場を確立したと自負しています。
その後のフォトプリンタでのエプソンの巻き返し、さらにその後のキヤノン、エプソン、HPなどインクジェットメーカー間の厳しい競争がインクジェット市場の発展に寄与したと考えます。
その後小藤さんに声をかけていましたが、ようやく1995年にキヤノンに来てくれ、主としてBJワイドプリンタの開発をやってもらいました。
1999年私はキヤノンを定年となり現在のXAAR日本代表となりました。翌2000年にキヤノン展で小藤さんたちの出展した60ppmのBJワイドプリンタを見させてもらいました。その後私の勧めもあって、小藤さんはキヤノンを退社し技術コンサルタント「インクジェット・ジェーピー」を始め、目覚しい活躍をしています。
ほぼ30年に渡って共にインクジェットに携わってきた「戦友」の小藤さんが、今後ますますインクジェット技術の発展と、世の中に新しい商品を生み出していくことに貢献してくれることを期待しています。


(写真)太田氏

→ 世界初の水晶腕時計を商品化した 元セイコーエプソン株式会社専務取締役 相澤進
→ キヤノン事務機事業を創業した 元キヤノン株式会社代表取締役副会長 田中宏
→ エプソンを立ち上げた 株式会社イーフォーシーリンク取締役会長 土橋光廣